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歴史講座「刀の装い」第一回目「お内裏様からみる公家の装い」開催しました

中央市豊富郷土資料館です。
8月3日(土)に歴史講座「刀の装い」第一回目「お内裏様からみる公家の装い」を開催しました。

2015年から日本刀ブームが起き、日本刀に関する書籍や各種イベントが多数行われました。しかし、その内容は主に「名刀」の「刀身」に注目するものがほとんどです。
一方で、日本刀が製作され使われた当時の状況を鑑みると、必ずしも刀身だけに注目しているとは限りません。
また名刀に注目するあまり、郷土刀や庶民の刀など、歴史上確かに存在したけれども美術品的価値は高くない刀に対する研究や保存がおろそかになっていないでしょうか。
当館は「郷土資料館」であるということで、今年は敢えて日本刀の刀身以外・名刀以外に注目します。

今回は、一般的に日本刀との関りが薄いと考えられている公家が、日本刀の拵(こしらえ、外装)にとても気を配っていたことを、中世(鎌倉~戦国時代)の具体例をもとに紹介しました。

高位の公家の姿を模した内裏雛は、その装いの一つとして刀を佩びています。
その刀は、私たちが知っているいわゆる「日本刀」とは異なる姿です。具体的には、柄に組紐が巻いておらず、鍔も一般的な鍔よりも厚い形状です。
これは、公家が刀を佩びるものの、それは斬撃に使う為ではなく、あくまで装飾品として帯びていることを示しています。
柄に組紐を巻かずにいると、強い衝撃を受けた時に柄が割れて手を痛める可能性があります。また鍔も拳を守る役割を果たせる形状ではありません。むしろ、柄も鍔も、側面から見て美しくあることを主眼に作られています。

梨地鶴丸文蒔絵螺鈿金装餝剣(画像出典:ColBase)

公家の刀は装飾品であると同時に、立場を表すものでした。
立場とは、まずは「刀を宮中で佩びることができる立場である」というもの。というのも、刀の佩用には勅許が必要で、建前上は誰でも佩びることができたわけではありません。宮中で刀を佩びることができたのは、武官と、勅許を受けた文官のみ。そのため文官の帯剣は、彼の特別な立場を表すものになりました。もっとも、この特権も鎌倉期から室町期にかけて形骸化し、しまいにはほぼ全ての公家が帯剣できるようになったのですが。
また別の側面でいうと、佩びる刀の種類でも自らの立場をアピールできました。公家の刀は蒔絵や螺鈿で豪華な装飾が施されており、装飾の種類でTPOが細かく分かれていました。それは佩用者の身分ともかかわっており、摂関家とそれ以外の公家では、同じ儀式でも佩びるべき刀の装飾が異なっていました。また、摂関家嫡流は重要な儀式の時に家宝である「小狐」の刀を佩びる慣習があり、それが摂関家以外の公家にも周知されていました。

九条兼実は有職故実に詳しい公家です。
彼の日記『玉葉』にはどの儀式の時にどの剣を佩びるかに関する記載が沢山登場します。

一方で、室町時代半ばまで、公家は刀身に対して関心をほぼ持っていません。管見の限り、公家の日記に刀鍛冶の名前が本格的に登場するのは足利義政の頃から。それ以前は、刀の拵に関するワードは登場しますが、刀身に関する話題はごくごくわずかです。

このように、公家は刀を多数所有していましたが、彼らの関心は刀身にはなく、拵のほうにありました。公家にとって刀は束帯や冠といった装飾品と同じような扱いで、儀式や佩用者の身分で細かくTPOが決められていました。
現代人はつい刀というと刀身の方に関心を抱きがちですが、そうではない世界が、お内裏雛の服装からうかがえます。

次回は9月7日(土)「絵巻物から見る庶民の装い」です。