見出し画像

峠を越える物流ルートを探るシリーズ「玉穂の馬頭観音を見つける」

「峠を越える人とモノ」というテーマ調査を歴史文化ボランティアの会(歴文ボ)と合同で昨年から行っています。太平洋側や九一色地区からの産物は本館背後の御坂山系を越えて甲府盆地へと運ばれました。右左口往還が有名ですが豊富地区を通過する峠道も何筋かあります。


峠道の探査

2022年には豊富地区と九一色地区をつなぐ峠の旧道をたどってみました。

2022.11.14大峠踏査 山頂の馬頭観音


馬頭観音をたよりに探査

冊子『豊富村の石造物』の馬頭観音の位置から、峠道から丘陵を進む流通ルートがうかがえます。九一色地区から馬の背に乗せ運ばれてきた物資は笛吹川を渡り玉穂地区を経て盆地各地に運ばれたはずです。しかし玉穂地区の馬頭観音については全体的なことが分かっていません。そこで今回の調査となりました。この馬頭観音調査は本館と歴文ボに加えて、中央市文化協会郷土研究部の皆さんと合同で行うこととなりました。

玉穂の馬頭観音調査第1日目

2023年8月10日(木)は歴文ボの青柳さんと歴文ボ・市郷土研究部の土橋さん水上さんと郷土研究部の田島さん井上さんと資料館内藤が参加しました。

乙黒毘沙門堂

参道を入っていくとお堂の前庭の入り口北側に八体の石造物が並んでいます(右から➀~⑧とする)。この寺は成島の瀧泉寺の旧地で元は駿河国富士郡入山瀬にあり、法論によって密教から日蓮宗に改宗したといいます(瀧泉寺松野住職さん)。

乙黒の毘沙門堂
毘沙門堂の石造物群

➀ 自然石に文字刻したもので「妙法馬頭観世音菩薩/乙黒邨/佐々木其右エ門/天保五甲午年(1834)秋七月造立之」(h74w37)とある。近世の乙黒には河岸が設けられ、江戸に送られる年貢米は近郷から乙黒まで駄送され、舟に積み替えられ鰍沢等の三河岸に運ばれた。佐々木家は旧家で乙黒河岸問屋文書を伝える。
② 舟形後背の馬頭観音立像。「寛永四年(1627)/子四月朔日/施主田中氏」(h58w29)
③ 舟形後背の馬頭観音立像。「寛文十□□□/五月吉日」(h50w29)
④ 舟形後背の馬頭観音立像。「文政□□」(h49.5w27)
⑤ 不明 舟形後背の立像。(h49.5w24)
⑥ 舟形後背の馬頭観音立像。「□□‥」(h43w27)
⑦ 舟形後背の馬頭観音立像。「明治二巳年十月/十□」(h43w27)
⑧ 舟形後背の馬頭観音立像。「□□‥」(h35.5w25)
 配列移動は年代の刻銘からは確認できませんが、右から大きい順に並べられているので、配置換えか移設されたかの可能性があります。これだけ馬頭観音像が集中する乙黒地域の特殊性が窺えます。

乙黒の長林寺

山門の左手に丸彫り座像一体が案座しています(全h126w37)。台座には次のようにあります。
(正面)「馬頭観世音/南無/入仏供養塔」
(右面)「維時安永二癸巳歳/三月十五日建畢/前総持當寺八世海雲□□代」
(左面上段)「地形普請/本願施主」 (下段)「田中勘左エ門/田中伴右エ門/田中六蔵/同妙昌想檀中」
(背面)「當寺二堂地形普請‥田中氏‥成就‥人馬‥此尊像供養‥施主現世安穏後生善処者也」
田中勘左エ門家は乙黒の旧家で、伴右エ門家・六蔵家はその分家とみられます。

乙黒の長林寺


長林寺の馬頭観音

町之田村東

乙黒と町之田の間を今川が流れ、河川改修されるまでは町之田だけに堤があり、論所堤としての記録が残されています。昭和初年まではこの堤の上を薪を積んだ馬を引いた九一色の人々が通ったと、古老(田中松彦さん)から聞いたことがあります。
 村境の富士見橋を渡ると、町之田の村の入り口に舟形後背の馬頭観音立像と六地蔵が立っています(h45w26.5)。後背に「(上段)馬頭/観音 (下段)慶応□□年/小沢氏」とあります。小澤家は町之田の旧家です。


町之田の村東の石造物場


町之田の村東の馬頭観音

極楽寺の安楽寺

安楽寺の駐車所の端には石壇の上に数体の石造が並んでいます。山門の内側にあったものですが、どれも乙黒地内の他の場所から移されてきたものだと池谷住職さんがおっしゃっていました。その中に双体馬頭観音立像があります(h50w29)。刻銘はなく、耳等に朱が残っています。


安楽寺の双体馬頭観音

九一色から関原峠や大峠を越えて、笛吹川を乙黒の渡しを渡り、乙黒から盆地内の各方面に分かれます。今回、馬頭観音が集中する乙黒から町之田方面と極楽寺方面に一基ずつ見つけることができました。次回はこの延長上を探ってみたいと思います。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!