中央市周辺の山城を見つける 2「市川上野の一条氏ノ塁址」
2024年9月28日より企画展「駿河への峠道をおさえる中央市周辺の山城」を当館で開催します。そこで企画展で取り上げる山城を紹介していきます。今回は豊富地区の西側に接する市川三郷町の一条氏ノ塁址です(上の写真は展示予定の模型ですが、制作途中です。仕上がったものは企画展でご覧ください)。
一条氏は武田氏の親類衆で城主信龍は信虎七男です。その後息子信就が城主となりますが、天正10(1582)年3月の武田攻めの織田氏に呼応した徳川家康は駿河から市川口に侵入し、一条氏の上野の城館を攻めています。
徳川勢により攻略された市川上野の「一条氏館」あるいは「(市川)上野城」の位置は、市川三郷町上野の蹴裂神社の周辺とされてきました。周辺は歌舞伎文化公園などの整備のために何回かの発掘調査が行われましたが、弥生時代の方形周溝墓などが検出されましたが、城館の遺構どころか中世の遺構・遺物は全く検出されませんでした。そこで城館の位置については再考が必要だと指摘されていました(神社の森の左に近世風天守閣がみえますが、これは発掘成果とは関係しない建物です)。
当館では中央市周辺の城館調査を行ってきましたが、文書・絵図の調査、聞き取り調査(市川三郷町上野の市瀬純司氏・丹沢千代治氏・有泉勝男氏にお世話になりました。ありがとうございました。)、空中写真の解析、現地踏査(山下孝司氏にお世話になりました。ありがとうございました。)などを実施しました。その結果、伝承地の蹴裂神社の南西300mの小高い丘が一条氏ノ塁址の該当地ではないかと推定しました。ここは屏風山・命婦山ともいい、市川神社の社地であったという記録もあるそうです。この神社は式内社とされる表門神社(お文珠さん・御崎大明神)の山宮とされていました。昭和になって蹴蹴神社に「上野城址」という石碑がたてられますが、地元には「市川神社跡地の方が城跡だ」という意見があったそうです。現在斜面に桜の木が植えられ、季節には遠くからでも桜色に色づいて目立ちます。
以下、市川神社跡地(屏風山・命婦山)を一条氏ノ塁址とする根拠をご覧ください。
甲斐国志の記事を見直す
『甲斐国志』の一条氏ノ塁址の項を要約すると、
➀二三の級(腰曲輪)があり自然の形をなす。
②南は山によっていて、北は絶岸(険しい切岸)である。
③西は緩やかに下り、諏方ノ森・御崎文珠ノ社ヘ続く。
④馬場・門前・物見塚など地名があった。
⑤本丸の頂きに牛頭天王を祀っていた。
となります。伝承地蹴裂神社の北側は緩やかな傾斜地ですから、この記述に該当しません。屏風山の方は➀②③④が該当します。
北側の崖には絶岸にあたります(②に該当)。階段は市川神社への参道で、この辺りは「門前」といいます(④に該当)。
丘の頂上は主郭は南北130㍍東西26㍍の平地です。現在は牛頭天王は祀られていませんが、北の崖の間に腰曲輪的な削平地が東側から北側に2段から3段で取り巻いています(➀に該当)。
西へは緩やかに下り、地元で「大諏訪さんの森」と呼ばれる森のあとや表門神社に下っていきます。傾斜の緩い西斜面には11本の竪堀群が施されています(③に該当)。
東側から南側に横堀。幅10~22㍍、深さ1.5~2㍍、長さ190㍍。その先、南は山となっています(②に該当)。
信虎が息子信龍をこの地に置き、直接支配しようとしたのは、市川が駿河への交易路である河内路の起点であるからでしょう。ですが、武田氏による甲斐統一段階でも利用された可能性も考えてみたいです。
まず、信虎の父信縄は兄弟争論となり国中の国人が両派に分かれて乱国となりました。そこで一河合戦が起きています。あとを継いだ信虎も叔父たちとの骨肉の戦いを経ますが、その後今川氏の結んだ西郡領の国人大井氏との攻防を重ねます。大井氏の本拠の戸田城はこの場所から笛吹川(釜無川と合流した)を挟んで3㎞の対岸に位置しています。戸田城には大井氏あるいは駿河今川勢も籠ることが度々ありました。それと対峙し軍勢を集結させるのにはこの地は至近で眺望がよい立地です。
武田氏攻めの徳川家康も穴山氏の手引きで河内路から侵攻し天正10年3月10日に一条氏の塁を攻め、その後4月まで徳川勢は市川に留まります。
6月の本能寺の変のあと、今度は家康は右左口筋から甲斐に入りますが、その前に家臣の大須賀康高を河内路から進行させて市川に駐屯させています。
この屏風山のある上野の社寺や市川大門の平塩岡には家康陣所の伝承が残りますが、万を超える大軍ですから一か所ではなく、この一帯にかけて陣を敷いたと考えられます。しかし竪堀を何条にも施す造作はここにしか見られませんから、おそらく本陣は一条氏の城館のあとに置いたと考えるのが妥当ではないでしょうか。