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与一ミニ企画展④『平家物語』成立と権力者①語り本と足利氏

『平家物語』の読み本・語り本それぞれの成立には、当時の政治権力も深くかかわっていたと言われています。
まずは「語り本」のほう、代表的な覚一本の成立と室町将軍家の関係を見てゆきましょう。

『太平記』に見える琵琶法師・明石覚一

現代において、もっとも有名な『平家物語』は、語り本の覚一本です。これは琵琶法師の明石覚一検校の語りをベースにしています。
明石覚一は琵琶法師で、南北朝時代に既に「平家」を語っていたことが分かっています。『師守記』暦応3(1340)年2月4日条に「覚一の平家」という文言があり、また『太平記』巻21によると、暦応4年春、覚一検校と真性の二人が高師直邸で「平家」を演奏しています。

覚一、死期を悟り口述筆記をする

覚一は、応安4(1371)年春に、彼の知る『平家物語』を弟子に口述筆記させます。理由は、彼自身が70歳を超えて寿命いくばくもない事と、彼の死後に『平家物語』の伝承に争論が起きないようにするためでした。この口述筆記本が後の「覚一本」になります。
覚一の口述筆記本は、後継者たちの間で厳重に守られました。後継者の定一検校が写本をつくり、原本は覚一の位牌所・清聚庵に納められます。写本も基本的に他人に見せてはいけないものとして、覚一の弟子たちの間で秘匿されました。

源氏長者と琵琶法師同業組合

覚一は「当道座(とうどうざ)」という琵琶法師同業組合に加盟していました。更に、覚一は琵琶法師側のトップだったと考えられています。
この座の元締めは公家の久我(こが)家。ですがこの座は久我家に属しているというよりは、久我家の長が代々務めている「源氏長者」という立場に付随する利権の一つだったようです。
「源氏長者」は文字通り源氏一族のトップという意味です。公家の久我家は村上源氏で、室町時代までは源氏の中で最も格が高い家でした。そのため久我家が源氏の長として「源氏長者」を世襲していたのです。
しかし足利義満が太政大臣になり、足利氏が官位で久我氏をしのぎます。そして「源氏長者」が足利氏に移ると、当道座の利権も足利氏にうつりました。それ以来、『平家物語』を相伝している琵琶法師は、室町将軍家の管理下に置かれることになったのです。

足利義満像(鹿苑寺蔵)

足利氏に提出された「覚一本」とその後

足利義満が当道座を支配していた時、トップは定一の次代である塩小路慶一でした。彼は、師匠・定一の逝去後、師匠が作った「覚一本」写本を足利義満に献上しています。
その後も度々、当道座をたばねる琵琶法師から、室町将軍家に「覚一本」写本が献上されるようになりました。
実は現在残っている「覚一本」は、室町将軍家に献上された写本が流出したり、更に写されたりした物です。
たとえば、現存する「覚一本」のうち大覚寺文書所蔵のものは、奥書によると、慶一が宝徳4年に書いた写本を、享徳2年にト一検校が写したものが流出したのを、明応9年に倫一という人物が買い求めたものです。また竜門文庫の「覚一本」は、文安3年夏、細川持賢が足利義政所有の覚一本を借りて書写したものです。
覚一はまさかここまで広まるとは思ってもみなかったでしょうが、おかげで私たちも『平家物語』覚一本を楽しむことができています。

足利氏にとっての『平家』とは

さて、室町将軍家が『平家物語』を語る琵琶法師の座・当道座を管理し、それは「源氏長者」の地位に付随する利権だったからという話でしたが、もしかしたら室町将軍家は意識的に当道座を狙っていたのでは、という意見もあります。
というのは、『平家物語』にある思想が、室町将軍家の支配に好都合だったからです。
具体的には、「源平交替思想」が、足利家には都合のいい考えでした。『平家物語』は、奢れる平家が源氏に滅ぼされる物語です。そして足利氏が台頭してきた時、世の中は「平家→鎌倉幕府(源氏)→執権政治(北条氏:平家)」まで進んでいました。そこで、奢れる北条氏を打倒し、武家の棟梁の地位を継ぐのは源氏だ、というわけですね。
もちろん足利氏以外にも源氏はいますし、現に新田氏などとの争いを乗り越えて室町幕府の基盤づくりをするのですが、その時の思想的な支えとして『平家物語』を求めたという説もあります。
『平家物語』およびそれを語る琵琶法師は、当時の人にとって単なるエンタメ以上の物だったようです。

参考文献:
兵藤裕己『太平記<よみ>の可能性』(講談社学術文庫、2005年)
兵藤裕己『平家物語の歴史と芸能』(吉川弘文館、2000年)
*トップ画像は平家納経(模本)授記品 第六(出典:ColBase)です