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関原峠横断

 「峠を越える人とモノ」シリーズの取組み三年目となりました。関原峠の北斜面は昨年の砦調査のおりに踏査してありましたが、今回、2024年5月15日(水)は芦川渓谷川の南斜面へ降りる横断を試みました。

地理院地形図 1(電子国土Webに加筆)

 現在の地形図には中央市関原より南の尾根に向かうルートは、中央の関原峠と西の獅子頭(859㍍ピーク)と洞山(764㍍ピーク)を迂回する、3つのルートがあります。

明治31年五万分ノ一地形図

明治31年地形図

 明治31年の地形図には西の獅子頭(859㍍ピーク)に向かうルートがみえません。地元の方の聞取りによると、この道はたいら山(931㍍ピーク 俎板と言った)からの木を伐りだすための道だそうです。洞山ルートは洞山までは山道が残っているのですが、尾根上まで這い上がるところには道が残っていません。東側の谷に崩落したのだろうと推定していました。ところがこの地図では、真っすぐ南に這い上がらずに、南西に関原峠に向かっているように描かれています。今回このルートも探ったのですが、痕跡を見つけることはできませんでした。
 右左口峠への道は「吉原町道」が「迦葉坂」を越えています。現在の右左口峠越の道は地図にはみえません。しかし明治41年の地形図にあらわれます。

関原峠口


崩落した個所

 北斜面は明治31年地図とほぼ同じルートを使っています。三尺幅の道が基本ですが、写真のように一部崩落個所があり、道幅が狭くなりますが、ロープが渡してあって安全に通過できました。

馬頭観音

 道端に馬頭観音3体。2体には「天保二(1782)年二月十一日」銘がありました。

十七世紀の石祠

 現ルートから外れたところに北を向いて石祠が建てられていました。

石祠の鬼と沢潟

 鬼が彫られ、妻に沢潟紋がみえます。設置者に関するものでしょうか。
「寛文十年/初秋吉日」と銘があり1670年の江戸時代前期に建てられたものです。17世紀の峠道はこの前をとおっていたようです。

左17世紀の道 右19世紀?の道
左19世紀?の道 右17世紀の道

寛文十年の石祠の存在で、17世紀当時のルートとそれ以降のルートの二つのルートがあることが分かりました。17世紀のルートは曲がりくねりながら傾斜緩く地道に登っていきます。一方、現在使っている道は、斜面を斜め真っすぐにつき進むルートです。おそらく近代になって、伐りだした木材を搬出するためにまっすぐに付け替えられたのでしょう。


穿ちあけられた道

 おそらく搬出する材木によって、岩が削り取られて隙間が空いたのでしょう。

関原峠の頂上


関原峠の頂上 

市の産業課が新しい案内看板を立ててくれました。


エビネラン

下芦川に下る道


地理院地形図 2(電子国土Webに加筆)

 南斜面は下九一色の村人によって何か所かが畑に開発されていましたが、現在はすべて放棄されています。明治31年のルートとは下半分でかなり違っています。迦葉坂からの下り口である地蔵堂に明治31年の関原峠道もおりているのでそこを目指しましたが、途中で寺下方面に出てしまいました。


わずかに残るむ石垣の上に山道がかつてあった
石垣の上が旧道 現道はその下の獣道並みのルート

 南斜面の下芦川集落への道は、メンバーの太田さん夫妻が下った経験があり、二人に案内していただきました。峠から下りだす初めは、谷を下るルートで、三尺幅の道があったのですが、あちこちが崩落し、倒木に遮られ、迂回しながら下っていきました。
 南斜面の上部は緩斜面が多い地形で、途中から、戦中戦後の開発地が残ります。

小屋のあと ほぞ穴が柱材に残っている
かつての畑の石垣
最近まで使われていた畑のあと
迦葉坂へ向かう道の分岐点の馬頭観音

 迦葉坂へ向かう道の分岐点に馬頭観音があります。このあと地蔵堂と寺下の分岐となります。

索道の小屋

 分岐点を地蔵堂に向かうと、尾根の突端に索道の小屋が残っています。人が一人乗れるくらいの鉄製の籠が付いています。中山地区の方から聞いた話では、昭和の50年頃までケーブルを使って桑の葉を積み下ろしていたといいます。ここでも最後には養蚕に使われたのでしょうか。

明治17年の馬頭観音
下芦川の大乗寺
芦川と地蔵堂の集落
蹴裂大明神前の馬頭観音

 明治17年の馬頭観音を過ぎると、梨子沢の左岸を下り、蹴裂大明神と大乗寺の裏の墓地に下りてきました。ここにも馬頭観音が立っています。かつては馬を使って荷を運ぶ人たちが利用したことをうかがわせます。

お世話になった芦沢さん

 釣り堀坂本屋さん(芦沢さん)にお世話になりました。ありがとうございました。毎週日曜日には営業しているそうです。