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与一ミニ企画展⑥『平家物語』成立と権力者②読み本と徳川氏

今回は『平家物語』のうち、読み本の成立と当時の権力との関係を考えます。

『平家物語』延慶本の写本活動

『平家物語』で最も古い読み本の一つが延慶本(えんぎょうぼん)です。この本は延慶年間(1308~1311年)に書写されたものが紀州根来寺に伝わり、応永26~27年頃(1419~1420)に組織的に写本が作られました。その時の写本が現代に伝わっており、奥書から上記の経緯が判明しています。
本文は、私たちが知る『平家物語』覚一本とは大きく異なります。音読を前提としていないので、文章は覚一本のようにリズム重視ではありません。内容も、覚一本にはない話がいくつか収録されています。たとえば「3人の与一」佐奈田与一の活躍は、覚一本にはありませんが延慶本にはかなり紙幅をとって入っています。
とはいえ両者は無関係ではなく、最新の研究によると延慶本から覚一本に影響を与えた部分もあるそうです。延慶本は根来寺周辺で秘蔵されていたと思われるものの、内容が漏れ伝わって他の『平家物語』に組み込まれる事もあったようです。

根来寺の大塔と大伝法堂。

『源平盛衰記』の登場

読み物として伝わった『平家物語』には様々なバリエーションができます。
まず、14~15世紀にかけて、東国の活躍を主に取り上げた『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』が登場します。同じ頃、『平家物語』の詳細バージョンともいえる『源平盛衰記』も編さんされました。
『源平盛衰記』の成立はよく分かっていないものの、最新の研究によると、収録されている説話の内容からして京都の清水坂付近の民が関与していた可能性があるそうです。
『源平盛衰記』の内容を見ると、様々な説話を収録し、量が多くて内容が詳しいことが注目されます。たとえば浅利与一の活躍を見ても、『平家物語』覚一本にはない与一の鎧の描写があり、確かにそれぞれの話が少しずつ詳しくなっているようです。そのため、中世後期から近世にかけて、『源平盛衰記』は「最も信頼のおける『平家物語』」として扱われました。

戦国期の欽定版『源平盛衰記』

数ある『平家物語』の中でも『源平盛衰記』が珍重された具体例が、欽定版『源平盛衰記』の編さん事業です。
明応3(1494)年、天皇の命で、山科言国ら公家が『平家物語』の書写・校訂を行いました。この時の様子は山科言国(やましなときくに)の日記『言国卿記』に詳しく載っています。この『平家物語』ですが、言国によると巻数が48だそうで、そのような大部の『平家物語』は『源平盛衰記』しかありません。欽定版を作ったのは『源平盛衰記』でした。
また天正10(1582)年正月、山科言国の孫・山科言経が、『平家物語』をかな書きしたものを織田信長の妾へ献上しました。この時献上した『平家物語』も、祖父が欽定版『源平盛衰記』の編さんに関与していたことから、おそらく『源平盛衰記』だったのではないかと言われています。
やがて『源平盛衰記』は古活字本にもなりました。現代では『平家物語』といえば覚一本ですが、戦国時代は『平家物語』といえば『源平盛衰記』でした。

江戸の『源平盛衰記』享受(注釈、教訓話)

江戸時代になっても、「『平家物語』といえば『源平盛衰記』」の風潮は変わりません。慶長17(1612)年、徳川家康は駿府で『吾妻鏡』と『源平盛衰記』を読み比べています。徳川家康が幕府を開くにあたり、源頼朝の例を参考にしたのは有名な話ですが、その材料の一つが『源平盛衰記』でした。
江戸時代、学問が発展し、様々な学者が古典の注釈を出します。『平家物語』に関しては、徳川光圀『参考源平盛衰記』に代表されるように、ほとんどが『源平盛衰記』の注釈です。この事からも、『源平盛衰記』がいかに重視されたかが分かります。

京都国立博物館所蔵の「帷子 白麻地梅に箙文様」。
『源平盛衰記』内で梶原景季が梅の一枝を箙にさして出陣した話をもとにしています。
(出典:ColBase)

参考文献
松尾葦江編『軍記物語講座 第二巻 無常の鐘声 平家物語』(花鳥社、2020年)
山下宏明ほか編『軍記文学研究叢書7 平家物語 批評と文化史』(汲古書院、1999年)
榊原千鶴『平家物語 創造と享受』(三弥生書店、1999年)