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大福寺周辺をたずねる 2「大福寺の仏像と歴史」

 本館で行われた山梨郷土研究会主催のシリーズ・現地で学ぶ「大福寺(中央市)とその周辺」での鈴木麻里子氏の講演(2023年11月11日)からお伝えします。

 大福寺には22体の平安時代の仏像が安置され、県内最多である。新収蔵庫に安置される前のそれぞれの堂の各像は、ほぼ『甲斐国志』に記載される江戸時代の安置状況を伝える。

(1)聖観音立像(観音堂本尊)

   観音堂厨子内 10世紀末頃 県指定文化財
 像高(現状)355.5㎝。左手に蓮の蕾を持ち、右手を立てるが、両腕は後代に補って造られたもので、造立当初の形は不明である。木造。前面は一本の材から造られる。背面は腰で上下に二材を矧ぎ合わせる。改変が多いが主要部分は造立当初の姿を伝え、雄渾な迫力に満ちる。現在、腰の下あたりで脚部を切断して取り去り、これに足の先を直につけているが、造立当初はもっと長い脚であった。この聖観音立像に似た平安時代の観音立像と比較して、本像の造立当初の像高を推定すると550㎝を越え、非常に大きい像であったと考えられる。平安時代半ば頃は都では巨像が多く造られたが、地方ではおそらく稀な巨像であったろう。(平安時代の丈六立像である。丈六は仏像の大きさが想像上の仏の大きさと同じ一丈六尺約480㎝であること。現存する中では、三重・近長谷寺十一面観音立像657.5㎝、京都・東寺千手観音立像584.6㎝に次ぐ大きさ。)
 像仏後どのように信仰されてきたのかは不明だが、江戸時代には「飯室観音」と称され観音霊場の札所となっており、おそらく中世以降も多くの人々の信仰を集めてきたのであろう。


聖観音立像(観音堂本尊)

(2)薬師如来坐像(薬師堂本尊)

   11世紀前半頃 県指定文化財
像高280.8㎝。衲衣を着け、左手に薬壺を持ち、右手を立て結跏趺坐する。頭から腹下までの体部は桂の一材から彫出される。これに左右の肩以下や脚部を矧ぎ付けるが、これらは後代に補われた材に変わっている。後頭部や背面は別の材をあて、胴内は内刳り(うちぐり)を施し中空とする。この薬師像も非常に大きな像で、額上端までの大きさが241㎝の丈六仏である。表現は穏やかだが、体躯は引き締まり、相貌は頬のふっくらとした童顔ながらくっきりと刻まれた目鼻立ちが印象的である。(大福寺境内の一番奥まった薬師堂に納められていたが、令和元年7月から2年4カ月かけて保存修理が行われ、本堂前の文化財保存庫に他の諸尊仏とともに安置された。)


薬師如来坐像(薬師堂本尊)

(3)毘沙門天立像

    観音堂 11世紀後半頃 県指定文化財

(4)不動明王立像

    観音堂 11世紀後半頃 県指定文化財
 (3)(4)は(1)の本尊聖観音像の脇侍像として少し遅れて造立されたのではないかと思われる。


左から(3)毘沙門天立像  (4)不動明王立像  (7)不動明王立像

(6)聖観音立像(お前立)

    観音堂 12世紀末 県指定文化財
 像高169.0㎝。左手に蓮の蕾を持ち、両手を立てる。両腕は後補だが、当初もこの形であったろう。延暦寺の横川中堂本尊聖観音立像と同じ形で、像高もほぼ等しく同像の模刻とみられる。体躯の正中線で左右の二材を剝ぎ合わせる寄木造。色彩は後補。平安末期の典型的な観音像である。優美な姿で相貌も優しい。


聖観音立像(お前立)

(7)不動明王立像

    観音堂 12世紀末 県指定文化財

(8)武装形像(破損仏、足のみ)

    薬師堂 12世紀末
 (7)不動像と対となった(6)観音像の脇侍の毘沙門天像ではなかったかと思われる。

(9)破損仏 16軀

    薬師堂 11~12世紀前半
 すべて一本から彫出され、内刳りがない。破損が甚だしい。男神像を含み、当寺鎮守七社権現宮に関わる尊像群とみられる。『甲斐国志』当寺条によれば、「十二神、雨の行者と称す。歳旱すれば、里人集まり、十二神を水に浸して雨を祈る。今枯腐して支体を弁ぜず。」とあり、江戸時代には当寺の池にこれらの像を浸して雨乞いの祈りを捧げたのであろう。


破損仏

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