大福寺周辺をたずねる1「浅利氏と大福寺」
今回よりマガジン「中世甲斐の風景」をスタートさせます。中央市は甲斐源氏の一族の鎌倉御家人浅利与一義成の拠点でした。与一が活躍した中世前期を中心に後期も含めて、甲斐内外のテーマを取り上げていきます。
今回は2023年11月11日に本館で行われた山梨郷土研究会主催のシリーズ・現地で学ぶ「大福寺(中央市)とその周辺」という研究会での末木健氏(山梨県考古学協会名誉会長・当館元館長)の講演からお伝えします。
浅利与一義成は武田(逸見)清光の10男または11男。法久寺位牌銘に承久3年(1221)9月に73才没とあるので久安5年(1149)生まれか。「浅利荘」(郷)に拠点を置く。『平家物語』壇ノ浦の戦い「遠矢」で活躍の記事。『甲斐国志』は笛吹川左岸だけでなく右岸にもその領地が広がっていたと記す。
『平家物語』の浅利与一
元暦2年(1185)3月24日の壇ノ浦の戦いでの矢合せにおいて、源氏方和田義盛射込んだ矢を平家方仁井(新居)紀四郎親清が射返して、義盛後方の武将にあたった。さらに紀四郎の矢が義経の船にも当たったので、義経は浅利与一を呼んで、平家方に矢を射返すように命じた。与一の矢は4町ほど飛んで、仁井紀四郎の胸を射て、船底に倒した。
浅利氏の遺跡
上に見える台地が与一の館跡と伝えられるが、発掘では遺構・遺物はなかった。
浅利与一が勧請したと伝えられる。
飯室山大福寺は与一と飯室禅師光厳が中興に力を尽くしたと言われる。飯室の山名は光厳が比叡山横川飯室谷で修業をしたことによるとされる(鈴木麻里子説)。光厳は武田氏の惣領一条忠頼の子で1184年に頼朝に暗殺され、光厳の弟の行忠も1185年に殺されている。与一は忠頼の叔父であるがほぼ同世代の人物で、彼が一条氏の血縁である光厳を中興のために甲斐に招いたのではないか。
鎌倉時代の浅利氏
『吾妻鏡』の与一は「遠義・義遠・長義」とあり、「尊卑分脈」にある義成という名はみえない。与一は頼朝の外出に同行する「供奉(ぐぶ)人」としてみえる。また、文治5年6月9日の鶴岡八幡宮塔供養などには「後陣の随兵」などとして9か所に現れる。
与一と板額
与一の拠点「浅利荘」(郷)は祖父義清の地盤市河荘(のちの青島荘)の一部である。清光と市河氏の娘の子供とすれば、市河荘(青島荘)を割いて、「浅利荘」(郷)を立て浅利与一に与えられたか。市河氏は城氏の一族で、秋田城介平維茂の子孫である。板額は、建仁元年(1201)1月に京で反乱を起こした城長茂と兄妹で、甥の資盛は3月に越後鳥坂城で反乱を起こした。反乱は敗れ、弓の名手の板額は捕えられて鎌倉に送られたが、与一の申し出により与一に嫁すことになった。与一の母が市河氏の出身とすれは、同じ城氏の板額を嫁にすることで助けたのではないか。
奥州に移った浅利氏
奥州にいつ浅利氏が移転したのか記録はない。『吾妻鏡』嘉禄2年(1226)5月4日条に「甲斐源氏浅利太郎」と結城七郎朝広が、奥州白河の関で、若宮禅師公暁が起こした反乱を鎮圧した記録がある。この浅利太郎が板額の生んだ知義のことか、あるいは与一の嫡男とすれば、このころ浅利氏宗家は奥州に移っていた可能性がある。
秋田県内には甲斐の浅利と関係する文書が残る。『新渡戸文書』文和三年(1354)「沙弥浄光譲り状」に「甲斐国あおしまのしょう あさりのこうのうち はなわのよそう後家のつくり田一町 在家一間」を惣領の彦四郎に譲ることが書かれている。