歴史講座を開催しました(「武田vs今川・徳川の城づくり」2回目)
中央市豊富郷土資料館です。
8月19日(土)に歴史教室「武田vs今川・徳川の城づくり」を開催しました。第二回目は「武田VS徳川の丸馬出」です。
(一回目の記事はこちら。)
城の防御施設のひとつに「馬出(うまだし)」があります。馬出は城の虎口(こぐち、小口とも)の外側に設けられた土塁や防壁のことで、角張っているものを角馬出、半円形のものを丸馬出といいます。
丸馬出の代表例として、よく取り上げられるのが遠江国諏訪原城です。
ここの丸馬出は当初、武田の手によるものだと思われていました。
それが近年の発掘調査によって徳川氏が築いたものだと判明。このことから、静岡の研究者から、駿河から信濃にかけて分布する丸馬出は武田の手によるものではない可能性が指摘されてきました。
しかし、その後の調査で、武田氏が丸馬出を作っていた証拠が見つかりました。
たとえば、沼津市の興国寺城で武田氏が築いたのが確実とされる遺構の中に丸馬出があります(下記リンク先の「興国寺城跡ガイドブック」10ページに写真があります)。
また、佐久市の稲荷山城・伊那市の高遠城など武田氏が改修した城にも丸馬出があります。
これらの城は侵攻したその時々の最前線に当たります。馬出は防御のための設備なので猶更、理にかなった運用法です。
丸馬出はその後徳川氏が採用しました。徳川氏の丸馬出は武田氏の2倍以上の規模になり、出丸のような役割も担いました。
後半は謎の絵図「甲州福泉寺城」の場所比定を行いました。
戦国期の有名な甲斐の城郭として近世に作られた絵図数点の中にあるものの、おおむね笛吹市周辺ということが分かる以外はどこにある城か分からなかった福泉寺城。
今回は、地図に登場する地名や相互の距離と手書き地図の特性から、福泉寺城が市部にあることを推定。そこから街道との位置関係や過去の空中写真から、福泉寺を現在の笛吹高校周辺と比定しました。
笛吹高校は笛吹川の河岸段丘の上にあり、鎌倉街道が通っています。その点でも、「段丘の端で水陸の流通路をおさえる」という武田の城館の特徴を持っています〔参照 内藤和久「武田信虎の福泉寺城略取と歴史的背景 」『 武田氏研究』 (64) 26-41, 2021年〕。
当日は多数の皆さまのご参加ありがとうございます。
第三回目は9月9日(土)です(申込は定員に達したため締め切りました。ご了承ください)。