与一ミニ企画展②浅利与一の紹介
今回は、中央市ゆかりの武将・浅利与一のプロフィールを簡単に紹介します。
彼については以前「大福寺周辺をたずねる1「浅利氏と大福寺」」でも取り上げました。そちらも併せてご参照ください。
浅利与一の履歴書
実名:遠義・長義・義遠・義成が伝わる(当時、名前を変えることはよくある事でした)
生年:久安5(1149)年
出生地:甲斐国か
父親:逸見清光(十一男)
母親:不明
兄:逸見太郎光長・武田太郎信義・加賀美二郎遠光・安田三郎義定(叔父とも言われている)・平井四郎清隆・河内五郎長義(田井小二郎長義)・田井五郎光義・曽根禅師厳尊・奈胡十郎義行
弟:八代余一信清・利見余一義氏・田井小太郎長義・修理亮道光・修理亮光賢
妻:氏名不詳女性・板額御前(建仁元年頃~)
子:浅利太郎知義 他女子
居館跡:不明(七倉の伝承あり)
墓所:大福寺・法久寺
生年について、与一ゆかりの法久寺にある位牌によると、承久3(1221)年9月7日に73歳で没したとの事で、逆算すると1149年になります。
1149年生まれだと、彼が活躍した壇ノ浦の戦い(1185年)の当時は36歳。与一とともに強弓で活躍した和田義盛が久安3(1147)年の生まれなので、おかしくない年代です。
与一の晩年の妻は板額御前と伝わっています。『吾妻鏡』によると建仁元(1201)年に鎌倉方の捕虜となった彼女を浅利与一が嫁にもらい受けたとの事で、与一が52歳の時の事になります。この「板額嫁取り」は『吾妻鏡』以外の文献記録が乏しいですが、当時の政治情勢を考えるとあながち作り話でもなさそうです。
与一の息子について、『吾妻鏡』には嘉禄2(1226)年に浅利太郎が出陣したという記載があり、彼が息子だとされています。知義の母親は分かっていません。他にも娘がいたという伝承があります。
居館跡は中央市の七倉がそうだと伝わっていますが、発掘調査では何も出てこなかったそうです。
当館でも与一没後800年の2021年に、与一の居館跡を探るパネルディスカッションを行いました。
また与一の墓も複数あります。
位牌がある大福寺・大聖院・法久寺のほか、当館近くの石塔も浅利与一の墓と伝わっています。近年の研究により、この石塔は与一が生前に建立した物である可能性も出てきました。すると彼の墓というより甲斐源氏の供養塔でしょうか。
なお中央市の各所で見られるイケメンな与一は、中央市出身の漫画家・田中正仁さんの手によるものです。
当館にも大きなパネルがあり、毎日資料館を見守っています。
参考文献
中央市教育委員会『浅利与一とその後の浅利氏』(2018年、サンニチ印刷)