与一ミニ企画展①『平家物語』からみる源平合戦の流れ
今回は、「三人の与一」(佐奈田与一・那須与一・浅利与一)の活躍を中心に、『平家物語』を振り返りたいと思います。
佐奈田与一だけ、一般的に流通している覚一本『平家物語』に登場していないので、一部延慶本の内容も入っています。
こちらが「三人の与一」の活躍を中心にした年表です。
源平の命運
『平家物語』が始まるまでの流れを概説すると、そもそも源氏も平家も元々は臣籍降下した皇族でした。その中から武芸が得意な一族が出て来て、ガードマン的立ち位置で朝廷に仕えるようになりました。その中で、平忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇に見出され出世しました。父の後をついだ清盛は、やがて天皇家の後継者争い(保元の乱)に巻き込まれます。その際後白河法皇側について勝利した平清盛でしたが、同じく後白河天皇を支援した源氏の棟梁・源義朝との間に争いが発生し(平治の乱)、彼を追い落とした清盛が権勢を握ります。
清盛は、かつて藤原道長がやったように、娘を天皇の后とすることで権力の基盤としました。一族も順々に出世していきます。
主な子女は下記の通り。
嫡男・平重盛(小松内大臣)
重盛の子・平維盛(富士川の戦いの大将)
三男・平宗盛(屋島大臣、壇ノ浦で捕縛される)
四男・平知盛(新中納言、後半戦の総大将、碇知盛などでも有名)
娘・徳子(高倉天皇中宮、安徳天皇母。建礼門院。壇ノ浦で救助され大原に隠棲。)
平家は我が世の春を謳歌していました。
源氏の挙兵
平家が我が物顔で振る舞う中、もちろん平家一族を快く思わない者たちもいました。彼らは打倒平家を試み、対抗馬としてかつて平家と争った源氏の一族に声をかけました。
たとえば、伊豆に流されていた源義朝の息子・頼朝。甲斐に本拠地を持つ武田信義(浅利与一の兄)。木曽に本拠を持つ木曽義仲など。
反・平家の試みは何度か露見し潰されかけました。頼朝らに打倒平家の令旨を出した後白河天皇の皇子・以仁王もまた、挙兵に失敗し討たれています。しかし令旨は頼朝らの手に届き、挙兵につながりました。
石橋山の戦い【三人の与一①佐奈田与一の活躍】
まず挙兵したのは源頼朝です。
挙兵は治承4年8月のこと。彼は伊豆で北条氏の助けを借りて挙兵し、17日、平家方である伊豆の目代・山木の館を焼きました。20日、味方である相模の三浦義澄と合流するべく伊豆半島を北上。義澄も22日には頼朝に呼応した動きを見せます。
しかし、相模には平家方の武将もいました。かつて源義朝に仕えていた、大庭景親・俣野景久兄弟です。彼らの本拠地は、現在の神奈川県藤沢市付近と伝わっています。一方、三浦氏の本拠は現在の神奈川県三浦市一帯。伊豆の頼朝が北上し、三浦義澄が合流しようと西に進めば、藤沢あたりにいる大庭らは挟撃されます。これはまずいと気づいた大庭・俣野は、兵力的に少ない頼朝に先制攻撃を仕掛けることにしました。それが23日の「石橋山の戦い」です。
石橋山の戦いが、当時としては珍しい夕方~夜の合戦なのは、大庭らが焦って襲ってきたことが影響しています。
ここで頼朝は敗北し、「三人の与一」の一人である、佐奈田与一も討死します。
頼朝は箱根に逃れ、やがて海路で三浦一族と合流し再起をはかります。
甲斐源氏の挙兵と富士川の戦い
甲斐源氏も時を同じくして挙兵します。のちに「壇ノ浦の戦い」に参戦する浅利与一も、兄らの挙兵に加わっていたことでしょう。
当時、甲斐国衙は石和にあり、平家の影響下にあったと思われます。中央からの命令で、平家方の平井氏は大庭景親軍に加わるべく甲斐を留守にしていました。
それを好機と見て、信義らは国衙をのっとり、甲斐国を実効支配しました。
信義の所業を知った大庭らは甲斐に進軍してきますが、甲斐源氏の安田義定が迎撃し、8月25日に俣野らを撃退します(波志田山合戦)。
10月、平維盛率いる平家軍を富士川の戦いで破ります。
なおこの戦で大庭景親は捕縛・処刑されます。
清盛の死去と平家都落ち
その後、源氏軍は木曽義仲の挙兵や源義経の登場があり平家を圧倒します。
平家方に不運は続き、治承5年、平清盛が熱病で亡くなります。既に彼の長男・小松内大臣こと平重盛も亡くなっており、これから源氏と全面戦争を迎える一族にとって、清盛の死去は大きな痛手でした。寿永2年、平家は進軍してきた木曽義仲になすすべもなく、京都を放棄し西国に逃れました。
入京した義仲でしたが、素行が悪く、京都の治安回復も遅れていました。そのため朝廷は義仲討伐を頼朝に打診し、義仲は新たに畿内に攻めあがった源義経に討伐されてしまいます。
その間、平家は西国で力を盛り返し、福原京まで戻ってきていました。しかし間もなく、源義経が福原を攻め(一ノ谷の戦い)、逆落としの奇襲などで敗れた平家は、屋島そして彦島に逃れました。
屋島の戦い【三人の与一②那須与一の活躍】
寿永4年2月、屋島の戦いがおこります。
一ノ谷の合戦後、義経は京都に、もう一人の大将である源範頼は鎌倉に戻っていました。範頼は、平家の本拠地である中国・九州を攻めるべく、頼朝から遠征軍を任され陸路で九州に向かいます。この遠征軍には甲斐源氏も加わっており、浅利与一もこちらに従軍していたと思われます。しかし平家方が水軍で妨害するのでなかなか戦果があがらず、兵糧すら乏しくなっていました。
その情報を京都で聞いた義経は、「直接敵の本拠地を襲えば簡単だ」と考え、手元にいた150騎を率いて、安徳天皇ら平家本隊がいる屋島の奇襲を決行します。
彼はまず、大坂の渡辺津から荒天の中で無理やり船を出させ、阿波国勝浦に渡ります。梶原景時と争った有名な「逆櫓論争」はこの渡海の時のこと。四国に渡った(漂着しただけかもしれませんが)一行は、北上して目代の桜庭館を襲います。桜庭館で、屋島の平家軍が伊予に出陣中と知って勢いづいた彼らは、屋島周囲の民家を焼き払って襲い掛かりました。
屋島は、現在は半島ですが、当時、周囲は湿地であたかも島のようだったそうです。源氏の襲撃に、平家は一旦船で沖に逃げました。しかしすぐに源氏が寡兵だと見破って、再び戻ってくるや、半島の陰に船を寄せて矢を射かけます。激戦になり、源氏軍も多くの損害が出ました。
その日の戦も終わるという時に、平家から扇を掲げた船が出て来て「射てみよ」と招きます。そこで源氏方の那須与一が進み出て、みごと射落として両軍の喝采を浴びました。
戦は最終的に源氏方の勝利となり、屋島を失った平家は、長門国彦島にむけて敗走、義経も船で彼らを追いました。
壇ノ浦の戦いと平家滅亡【三人の与一③浅利与一の活躍】
彦島は関門海峡の西にある小さな島です。そこにいる平家を目指して、海からは源義経の源氏水軍が、陸からは九州遠征軍の源範頼が迫ります。
寿永4年3月、彦島の沖・壇ノ浦で、源平の最終決戦が行われました。当初は平家方が優勢に進めていましたが、源氏方の強弓・和田義盛や浅利与一らが遠矢を射かけて平家を圧倒し、戦況はしだいに源氏方有利になりました。
最終的に敗戦を悟った平家は、安徳天皇や清盛の妻である二位尼が入水自殺した他、主だった者たちが次々と入水します。三種の神器も水底に沈みました。
この折引き上げられた平宗盛は京都で処刑されます。同じく助けられた平徳子(建礼門院)は京都大原で余生を送りました。
以上が「三人の与一」を中心とした『平家物語』のあらすじです。
これから個別の内容を見てゆきましょう。
参考文献
内藤和久「中世都市石和の領域と支配」(萩原三雄氏追悼論集刊行会編『甲斐の中世史』、高志書院、2024年)