資料館のかたな①備州長船勝光
中央市豊富郷土資料館です。
当館は地元の方から寄贈された日本刀も展示しています。
今回は、常設展示「戦争の頃」のコーナーにある刀をご紹介します。
こちらは「備州長船勝光(びっしゅうおさふねかつみつ)」として収蔵されている刀です。
「備州長船」は備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市長船町)を指します。
この地域は古くから市場として栄えていました。有名な『一遍上人絵伝』福岡市もこの地域の市場です。近くに吉井川があり、川を使った水運や、瀬戸内海を通じて畿内との交易も盛んでした。
くわえて中国山地は作刀に向いた良質の鉄がとれて、だんだんと刀鍛冶があつまり、室町時代には刀の一大生産地となったようです。
もう少し大きい写真で見てみましょう。
刀身に、白っぽい部分と黒っぽい部分があるのが分かると思います。おおざっぱに言えば、この白っぽい部分が「刃」で、黒っぽい部分との境目のボンヤリしたところが「刃文」です。
ちなみに、戦争コーナーにある別の刀の刃文はこんな感じです。
上の写真の刃文は穏やかに見えるのに対し、下の写真の刃文はギザギザしていて華やかに見えます。
刃文は刀鍛冶と研ぎ師の合作でできます。
刀鍛冶は、焼き入れの前に「土置き」という作業をします。焼き入れの時、刀鍛冶は刀を一度熱してから水で急冷します。刃の部分はこの工程で化学変化を起こして固くなります。
しかし刀身全部が変性するともろくなるので、刀を熱する前に、変性させたくない部分にペースト状の土を塗って保護します。
このとき、刃の部分の塗り方で刃文が現れます。
土を刃に一切塗らず、境目をまっすぐにすると「直刃(すぐは)」。
波状にするとその度合いで「のたれ」や「互の目(ぐのめ)」などになります。
備前刀によくある「丁子(ちょうじ)」は、刃にシマシマを描くように垂直に土を置くとできます。
刃文は流派によって特徴があります。「関の孫六」で有名な美濃国関鍛冶(岐阜県関市)は「三本杉」という刃文が有名です。名前の通り三つのギザギザがひとまとまりとして、それが連続して出る刃文です。また鎌倉を中心に活躍した相州伝は「のたれ」や「直刃」をベースにしています。
刃文は刀鍛冶の好みもありますが、鉄の品質によっても綺麗に出る刃文とそうでないものがあるようです。
たとえば、駿河国島田(現在の静岡県島田市)の鍛冶は、戦国時代頃に備前国の鍛冶が招かれて始まったと言われています。島田鍛冶の作風は、最初は備前伝風でしたが、次第に相州伝風になったとか。理由は様々言われていますが、島田で手に入る鉄だと備前風の作品が上手く作れないからでは、という説があります。
学芸員も十年ほど前に刀鍛冶の方から話を聞いたことがありますが、確かに鉄の質によって出やすい刃文、作りやすい刀というのはあるそうです。
さて、刀鍛冶が焼いた刃文を綺麗に見えるように研ぐのが研ぎ師の仕事。
実は日本刀は、刀鍛冶が作っただけでは、私たちが知るような綺麗な刀身ではありません。
刃が白く、棟の部分が青黒くクッキリ分かれているのは、研ぎ師の技術です。
切れるように研ぐのみならず、綺麗に見えるように研ぐ(むしろ「磨く」といったほうが近いかもしれません)のは熟練の技です。
特に刃部は、細かい砥石を更に細かくしたものを指に置き、刀を観察しながら丁寧に丁寧に磨いています。
美しい刀剣には、研ぎ師さんは欠かせない存在です。
本刀の鍛冶とされる「勝光(かつみつ)」は、『日本刀銘鑑』によると備前国に十六名(慶長以前)確認できます。
刀鍛冶も名前を継ぐので、有名な「正宗」や「村正」なども複数いるんですね。そして有名な人が必ずしも初代ではないのもポイント。
さて
「勝光」の初代は応永年間頃の活躍です。室町幕府ができた頃の刀工です。
そこから断続的に名前は続いているようです。
現存する「勝光」の刀は室町時代後期、文明年間以降のものが多いようです。
本刀もその頃の刀かもしれません。