中央市周辺の山城を見つける 1「七覚・洞山編」
当館では歴史文化ボランティアの会との合同フィールド調査で、2023年度は市内の山城調査も行っています。5月から7月にかけて実施されたもので、本新ブログ開設前のことでしたので、前後しますが概報をお知らせしていきます。
中央市は南側に御坂山系を背負っていますが、山城の実態については確認されていませんでした。しかし隣の中道町(現甲府市)には中道往還が通る峠道(右左口峠)があり、いくつかの山城が確認されています。本市の豊富地区からも駿河や九一色と結ぶ峠道が越えていますので、山城が存在してもおかしくありません。そこで5月20日(関原峠踏査)、6月24日(聞き取り調査)、7月4日(七覚峠・洞山踏査)、7月15日(右左口の諸城踏査)と実施しました。
七覚の五社権現に遺構を確認
右左口七覚集落の円楽寺(七覚寺)にある役行者像(国内最古)はかつては、五社権現の背後の峰の行者堂に安置され、そこから毎年富士山二合目の行者堂に修験者達によって担ぎ上げられました。近世までは円楽寺と五社権現は一体で、古くからの富士信仰の参詣拠点でありました。
五社権現から七覚峠を越える尾根道は富士参詣の峰入り道です。途中の洞山(高山)は富士峰入りの祭事の場と伝えられていますが、2013年に私一人で登った時に城郭遺構らしきものがあるなと、にらんでいました。
七覚峠への道は五社権現をスタートとし、尾根伝いに徐々に登っていくルート取りのいわゆる「地道」です。今回はこの峰入り道の案内を地元の歴史研究家の山崎金夫さんがしてくださいました。少年時代の遊び場だったそうです。
七覚五社権現に城郭遺構らしき曲輪があることを山崎さんが教えてくださいました。本殿・拝殿(かつては護摩堂)の北側に4段の小郭が認められます。ここを登るルートが本来の参詣道だと山崎さんは推定しています。行者堂の北側にも小郭が認められました。
これらの遺構がどういった性格のものなのか今のところはっきりしません。七覚は両山の山伏が集う修験の拠点でありましたから、それに伴う遺構であるのかもしれません。または観応の擾乱の「七覚寺の合戦」(佐藤文書)にかかわる城郭的な遺構であるのかもしれません。
洞山に遺構
五社神社から尾根道を登っていきました。山が荒れ倒木が道をふさぎますが道址は残っています。山頂尾根から北に突き出した標高764㍍の洞山(7合目くらいの位置)に遺構を発見しました。中央市と甲府市の境界の山です。洞山は修験道に関係する名と言われており、既に発見されている金刀比羅山砦と右左口宿を見下ろす位置にあります。
南北の馬の背で閉鎖された空間
訂正
調査時点では城郭の可能性を推定しました。しかしその後、城郭研究の専門家の現地調査が行われ、「戦国期の山城ではなく、遮断施設か宗教施設」との見方が提示されました。当館でもこの見解に従います。
宗教施設としての見方
この地は勝沼大善寺の藤切祭りに連動する七覚寺の真切祭りの祭事の場であろうと、地元では伝えられているそうです(山崎さんご教示)。しかし修験の道だけではなく一般の流通路でもあったと考えられます。特に右左口峠のルートが開かれる以前の駿河に通ずる古道の一つでしょう。
遮断施設としての見方
明治四十四年生まれの渡辺信政さんは関原の関所の由来について次のように書いています。「今の関原峠と右左口峠の中間に、中塚と言う小高い所に峠があった。その峠を巻戸という峰づたいにおり、竜戸川の合流した所(洞山)に関所があって、その隣の五畝位の平地に控所があった」〔渡辺信政「関所の由来」『世のうつり』第二号、豊富村、一九八五年〕と、この場所に関所があったとしています。
観応の擾乱や天正壬午の戦いでは、この周辺の駿河との連絡路をめぐって戦闘が行われたという史料がありますがら、兵が籠り通行を遮断したという可能性も考えられます。
今回の5月から7月の調査で右左口金刀比羅山の中腹に新たに城郭遺構を発見しました。また関原峠にも砦の遺構を確認しています。今後、本ブログで紹介していきたいと思います。またこの秋以降に中央市・甲府市の文化財担当者にも同行いただいて、現地確認をしていただきたいと思っています。
来年度には当館で企画展「中央市周辺の山城(仮称)」を計画しいます。