見出し画像

山野の利用の話③(関原地区の方々からの聞き取り調査)

  歴史文化ボランティア(歴文ボ)との調査プロジェクト「峠を越える人とモノ」の一環で、山野の利用について聞き取り調査を昨年度から行ってきました。前回までは大峠の麓の豊富大鳥居の水上地区の方々のお話を伺ってきました。本ブログ開設前でしたので、歴文ボ会員限定で様子をお伝えしていましたが、今回の第三回からはブログに登場です。
  今回2023年12月13日も峠のこちら側の関原地区です。関原峠の峠道の麓の集落で、峠を越えた南側の芦川沿いの九一色とつながっています。歴文ボ副会長大村正明さんが間に入っていただき、石原勝明さん94歳、山口竹長さん90歳、田中正彦さん84歳にお越しいただき、戦中戦後の村の山野の利用の様子について伺いました。主に石原さんがお話をし、山口さん田中さんが付け足す形で進みました。


関原峠の鳥観図(南から盆地側をみる)


関原の集落

1 燃料について

(1)薪と「もや」
煮炊き・風呂は薪と「もや」(粗朶、関原村の近世文書には「もや木」とみえる)。5、6年以下の細い木はもやにする。下の太いところや、それ以上の年数の太い木は薪にする。
自家山をもつ家以外は共同の山(県有林を村が賃料を払って借りている山)を利用する。秋から冬におとこし(男衆)の仕事。学校を卒業すると参加する。道具は鋸と厚刃鎌と鐶(かん)。鐶は楔に金属製の輪っかが付いた道具で、伐りだした木の根元側に打ち込んで、輪にロープか藤弦を通して、腰に結って斜面を引きづり下ろす。少年はロープを使い、藤弦は強く5本から10本を引くことができるのでベテランの道具である。作業のできる平らな所まで引き下ろすと、薪は3尺に切りそろえて、「もや」はまるげて束にして背負子に付けて家まで運ぶ。


もや

 桑の条(カイコガ葉を食べてしまった枝の残り)は良い燃料になったが、昭和30年代以降にプロパンが入ってからは、桑畑に鋤きこんで肥料にした。
(山口さんの話)
 ほとんどの家は自家用だが、我が家を含め関原で2、3軒は薪やもやを売りに行った(大鳥居はもっと多い)。農閑期にあらかじめ取っておいて、秋までニオにして乾かしておく。寒くなるとリヤカーに30把ほど積んで笛吹川を越えて売りに行く。豊積橋の土手にあがる道が重くて苦労した。二川・大里・極楽寺・成島・井ノ口・上河東・築地まで出かけた。中道のしんとう(衆等)は小瀬の方、大鳥居は今川の西。1年目は売るのに大変だったが2年目からは得意先ができて、待っていてくれるようになった。中郡(笛吹の北側、盆地中央)は山がないから買わなければ生活ができない。リヤカー一台分が一度に売れることもあった。仕入れもした。もやは1把30円で仕入れて37円から38円で売った。


現在の豊積橋と笛吹川

 暖房(こたつ)は炭だったが、自家用は戦中まで下九から買っていた。炭づくりは九一色のしんとうの一年中山に入ってする仕事。技術がいる大変難しい仕事。昭和22年頃こっちでも自家用を焼こうということになって、下九から来てもらって炭焼きの先生として教えてもらった。関原に4箇所(4グループ)あった。字弥次郎・南村・大嶽山に登る所など。弥次郎のグループは6軒でしていた。すべて自家製で売りはしなかった。
 

2 肥料用の落ち葉・草木の利用


 落ち葉をよく集めて肥料にした。おしもの先生(医者)の持ち山に入れてもらった。だいたい落ち葉集めはおおらかで所有者があまりうるさく言わなかったが、厳しいところも一部あった。集めてきて堆肥舎に入れ、水や下肥(人肥・牛馬豚肥)をかけて発酵させた。桑畑や田に敷き込んだ。山中に村で借りている野原があって、そこを刈って緑肥にもした。
 

3 山野の開墾


 戦前から30年代にかけて日当たりや土など条件の良い林を畑に開墾した。特に戦後すぐは食糧難だったので開墾がよく行われた。その後、桑をつくったが今は荒れ地になっている。
 

4 山野の共有と共同作業


 山は民有林と県有林だが、民有林を持たない家のために県有林の内に借料を村で払って共同で使う林があった。雑木林だけでなく松林もあった。薪・もや・草だけでなく立木も伐りだして使った。
 道つくりに行ったことがある。絵下林・大門尻・三星院山・けんか山(七覚集落との境の山で、4月の節句に両方から子供が登ってきて大声を出した)。道つくりでは土橋づくりをした。長い丸太を三本渡して横に短いのを何本も敷いて上に土を乗せて平らにする。
 


関原峠への道

5 峠を越えて荷を運んでくる人


 秋から冬に下九のしんとうが炭俵を女しは2俵、男しは3俵背負子に付けて、毎朝5、6人で家の前を通って行った。馬は関原でも飼っていたが田畑用で、運送には使わない。下九のしんとうも歩いてくる。
(関原峠には峠に登る東ルートと獅子岩に登る西ルートがあるが)関原峠の道が主に使われていて、獅子岩への道はまな板(たいら山)の木を伐りだすために使った。伐りだした木は橋に使った。

5 関所・砦の伝承


(渡辺信政さん(明治44年生まれ)が『世のうつり』2号で関所の伝承を書いていることを紹介した。)
関所や山城の言い伝えは聞いたことがない。「巻戸の峰におりる」とあるのは七覚との境の峰をまわって登って行ったところ。
(明治生まれの人のは伝承が残っていたようだが、昭和には伝わらなかったようである。渡辺信政さんは、関原峠と右左口峠の中間点の中塚という峠を巻戸という峯づたいに下りたところに「関所」があり、その隣の五畝位の平地を「控所」だったとしているが、山口さんによるとこの場所は洞山であることから、「関所」と「控所」はその城郭遺構を指している)。