歴史講座を開催しました(「武田vs今川・徳川の城づくり」3回目)
中央市豊富郷土資料館です。
9月9日(土)に歴史講座「武田vs今川・徳川の城づくり」3回目を開催しました。
今回の舞台は天正10(1582)年。前半は武田氏の一族・一条氏の拠点となった上野城がどこにあるか、後半は本能寺の変直後の北條・徳川の争い(天正壬午の乱)に関わる砦についてです。
いずれの内容も、今年の夏までに実地のフィールドワークを行い、定説と違う箇所や新たな砦の発見がありました。今回の講座はそれら最新の成果も盛り込んでいます。
まず一条氏の上野城について。
現在、市川三郷町に上野城址の碑が建っています。ただ、その周辺の発掘調査では中世の遺構が出て来ないという問題が。
改めて記録を読み直すと、『甲斐国志』古跡部「一条氏ノ塁迹」に次のような記載があります。
ここから導き出せる手がかりの地形や地名と、周辺地域の聞き取り調査によると、現在の上野城跡ではなく表門神社奥宮のある屏風山周辺のほうが記述に合致しそうです。
表門神社奥宮のある屏風山周辺は、現地の四方の状況が北が崖であるなど『甲斐国志』の記述と合致します。また主郭部の周りに腰郭や竪堀群や横堀がめぐっているなどの城郭遺構が存在し、上野城跡として説得力があります。
次は本能寺の変直後の峠の山城について。
織田信長の死に伴い、甲斐国の政情も不安定になります。それまで甲斐は織田家が支配していましたが、早くも6月18日には駐留していた河尻秀隆が武田遺臣に殺害されます。主を失った甲斐に、東から北条氏が、南から徳川氏が侵入。武田遺臣も各地で蜂起しました。
さて、徳川家康は6月末から軍勢を甲斐国に送り、自身も浜松から精進湖畔をまわって甲府に着陣します。
今回の出陣に際して、徳川家康はかなり用心して後方の安全を確保していました。
甲斐国南部は北条の本拠地・相模国からも近く、北条軍に退路を断たれる恐れは十分にありました。家康は金ヶ崎城(元亀元年4月)や伊賀越え(天正10年6月)でひどい目に遭っていたので特に用心し、複数の撤退ルートを確保していたと考えられます。
まず身延から富士川沿いに抜ける河内路ルート。こちらは武田遺臣の中では信頼のおける穴山氏の領国でもあり、政治的には最も安定している道です。ただ大雨による増水で使えない事があり、家康も今回は利用していません。
次が今回の進攻で利用した、大宮・精進・右左口・甲府のルート。いわゆる「中道往還」です。特に右左口の峠道は、徳川家康が織田信長の甲斐侵攻に伴い整備したと言われています。
さて、2023年の5月~7月にかけて、当館館長と中央市歴史文化ボランティアの会有志とで、右左口金刀比羅山上の城郭遺構と関原峠の砦跡、また両者の中間に位置する洞山の砦を調査しました。
これらの砦はおそらく天正壬午の乱に関わっていると思われますが、分からない箇所も多数あり、今後も継続して調査を行う予定です。
調査の状況は随時ブログ等でお知らせします。お楽しみに…。
さて、このような未発見の山城や存在がはっきりしない山城は、まだまだ県内にたくさん残っていると考えられます。
現時点では、伝承をもとにした現地調査しか方法がないのですが、もし山梨県全域の高精細な赤色立体地図が公開されたら、山城調査の効率も格段に上がります。
たとえば宮崎県の「ひなたGIS」にデータがある県の場合、それを眺めるだけでも山城の痕跡を見つけることができます。
山梨県のデータはまだありませんが、いつかデータができて、天正壬午の乱に伴う山城をはじめ多くの城が見つかることを期待しています。
今年度の歴史教室はこれで終了です。
多数の皆さまのご参加ありがとうございます。
来年の実施有無・内容はともに未定ですが、決定し次第中央市広報や各種配布物、またこちらのブログでも告知します。
追記(2023年9月15日)
本講座3回目に関する記事が山梨日日新聞9月13日朝刊および電子版に掲載されました。
その中に一部誤りや誤解を与える点がありますので、ここに補足します。
まず、紙面では「徳川氏が築造可能性」とありますが、現段階では、いくつかある段階の中で築城主体の選択肢の一つとして徳川氏修築」の可能性が推測される程度です。
また、「中央市教育委員会などの調査」と記載がありますが、紙面公開時点では中央市・甲府市教委担当者に現地に同行していただき確認していただきたいと提案している段階です。
掲載中の写真ですが、城郭遺構を調査した中の一枚ではあるものの、ポイントとなる遺構を写したものではなく、主郭と最高点をつなぐ尾根上の通路の一部です。紙面に掲載された通路の写真と、南側の堀切と土橋を撮影した写真を添付します。
近いうちに調査の概報を本ブログにUPしたいと思います。