玉穂の馬頭観音を見つけるパート2
2023年8月26日(土)は歴文ボの青柳さんと歴文ボ・市郷土研究部の土橋さん水上さん太田さんと資料館内藤で現地に出かけました。途中郷土研究部の井上さんが講師として参加してくださいました。
下河東下の村南の辻
玉穂南小の東の道祖神場です。町之田からの道の辻にあり村の入り口です。大きな榎の下に丸石道祖神と六字名号塔、板碑六地蔵3枚、如意輪観音、地蔵、双代道祖神(近年のもの)2体と馬頭観音2体があります。町誌には永源寺の旧地であったとありますが、他所からの移入も考えられます。
馬頭観音➀左 (h48.5㎝w22㎝) (正面)嘉(永)七年/四月 (左面)土屋㐂左エ門
馬頭観音②右 (h41㎝w24㎝) 刻銘なし ➀と同じ石工によるとみられる。
下河東上の村の北の入り口
下河東の集落の中央を南北に通る道は玉穂中央通りとして現在拡幅中。集落の北側は環状線があり早くから造成されました。庚申塔を中心に六地蔵板碑2枚、六地蔵石幢と馬頭観音一体があります。この道は山梨大学病院の東の通りですが、造成前は井ノ口集落に通ずる野良道で野中には若宮八幡があるだけでした。
馬頭観音(h41㎝w26.5㎝)天保十一年/子四月十日
細い目でシックなお顔をしている。ここは上窪遺跡であり、すぐ北側の水路跡からは牛頭天王信仰に関わる笹塔婆が出土しています。また水路に囲まれた区域内からは12~15世紀の市場の跡が検出され、笹塔婆も市の信仰との関係が推定されています。
宿成島の延命地蔵
環状線と県道の交差点の南西の一角に、地元で「延命地蔵」と呼ぶ石造物の集中する場所があります。中央には室町期の六地蔵石幢が堂々と立ち、六地蔵板碑が10枚他、様々な石造物が集中しています。地元の井上さんによると環状線の北側に近世末まであった宝性寺(真言宗)の「大門先」にあったものを移したといいます。御札も見せくださいましたが「地蔵堂」とあり、延命地蔵堂という堂も建っていたようです。甲斐国志編纂資料の成島村絵図にはすぐ東側に長印寺という浄土宗寺院もあったようなので、そこの関連もあるのかもしれません。
玉穂町の馬頭観音と古道
今回の調査によって笛吹川の北側の玉穂について馬頭観音16体を確認することができました。その半分は乙黒地区に集中していました。峠を越えて乙黒の渡しを越えて盆地に運ばれていく物資の起点に乙黒はあり、そこから各方面に運ばれたものと思います。そのルート上にも馬頭観音がみられ、乙黒から今川を越え町之田・下河東に至るルートは井ノ口から河東中島と盆地を北上して甲府(古くは一条)方面等に向かったものと考えられます。それだけではなく、乙黒から成島・西新居、または乙黒から極楽寺・高室というルートも想定できます。
乙黒から各地に向かう動きだけではなく、これらのルートは逆に盆地各地から乙黒に陸送するルートでもあったと考えられます。佐々木家文書にみえる乙黒河岸問屋は各村々から陸送された年貢米を舟に積み替えて鰍沢河岸などに送り出していました。また甲斐国志によると乙黒では江戸時代に薪などを扱う市が開かれていたようです。馬頭観音が集中する毘沙門堂は当時沼の際にあり、ここから船積みしたとするならば、今川から笛吹川への輸送はスムーズであったと考えられます。
上窪遺跡からは中世前期から後期にかけての市場の跡が検出されています。このことは史料からも裏付けられており、河東には商人の仲間組織の座が複数存在しましました。盆地内の物流拠点の一つであったと考えられますが、甲府に府中が移されると商人は甲府に移転し、市の機能は縮小して乙黒に移されたのではないのでしょうか。