資料館のかたな⑥忠広
中央市豊富郷土資料館です。
当館は地元の方から寄贈された日本刀も展示しています。
今回も常設展示コーナーにある刀をご紹介します。
今回は「肥前国住近江大掾藤原忠広」を紹介します。
彼の本名は橋本平作郎、のち新左衛門尉と伝わっています。生まれは慶長19(1614)年。「忠広」としては二代目です。
初代は寛永9(1632)年に61歳で亡くなるので、生まれは元亀2(1571)年頃です。彼も肥前国に住み、武蔵大掾を名乗ります。後年、銘を「忠広」から「忠吉」にしています。
二代目忠広は、初代が亡くなった寛永9(1632)年、19歳で忠広を襲名します。「近江大掾」を銘に使い始めたのは、官位を授かった寛永18(1641)年以降のこと。彼は元禄6(1693)年に80歳で亡くなりますが、天和3(1683)年の年紀作があるため70歳までは作刀をしていたことが分かっています。
忠広の刀のように、江戸時代とくに慶長元(1596)年以降の刀を「新刀(しんとう)」、それ以前の刀を「古刀(ことう)」と呼びます。日本刀を大きく二つに分ける場合は、ここが境になります。
とはいえ初代忠広のように、戦国末期から江戸初期にかけて活躍する刀工もいて、厳密に分けきることはできません。これらの刀は「新古境(しんこざかい)」と呼ばれる事もあります。
古刀の時代は、各地域で特徴ある刀剣が作られました。まだそこまで交通が発達していなかったので、技術交流も限定的でした。それが江戸時代にかけて交通が発達すると、流派の交流が盛んになり、複数の師匠から学ぶ刀工もでてきました。また鉄の入手ルートも確保しやすくなりました。
一方で、江戸時代になると刀を実際に抜いて振り回す機会は減ります。そのため刀身の需要はどんどん減り、元禄頃になると刀剣業界は一時衰退します。その後徳川吉宗らの働きかけで作刀が盛んになり、幕末に至ります。この江戸時代後半の刀を「新々刀」と呼ぶこともあります。
刀だと400年前の品でも「あたらしい」部類なんですって。