中央市周辺の山城をみつける 4「市川上野から右左口につづく尾根上塁址群」
前回「獅子頭の遺構」で、土塁と竪堀によって構成される塁址について報告をしましたが、実はこれまでの数次にわたる調査によって、この山系のあちこちに同様の構築物が見られることが分かってきました。今回は西から東へ見ていき、その謎に迫ります。
上の図に示したように、市川上野の一条氏ノ塁址の南の尾根から右左口峠付近までの7.5㎞の間に、実に22か所の遺構が確認されています。尾根が分岐する高みには、竪堀を廻したり小郭を設けたりしています。それをつなぐ尾根のたるみ部分には、土塁を渡し、盆地側に竪堀を施しています。
同様のものを滋賀県長浜市の余呉湖の北でみました。賤ケ岳合戦のおりの砦群です。秀吉側が柴田側に対抗するために築城した施設で、砦はもっとしっかりしたものですが、その間をつなぐように細長い塁址を伸ばしたり、鞍部には土塁を渡したりています。尾根上に長く防御のための構築物をつなげている点は、中央市周辺でみられる尾根上の塁址と似ています。
一番西の光勝寺裏の沢上の鞍部の塁址です。東から見ています。右(北)が盆地側です。左(南)側にテラスが付随するのは、獅子頭の遺構と同じです。下に縄張図を示しましたが、土塁の両端の盆地側に二本ずつ竪堀が施されています。盆地側への防御意識を強くした施工で、また自軍の尾根上の移動と連絡を容易にすることを意図したものとみられます。最初の写真は同じ遺構の東端ですが、竪堀をメンバーの比志さんがのぞき込んでいます。
桜峠の西側です。手前は車道によって切通しになっています。右側のテラスは現在マウンテンバイクのルートが併用されています。左側に土塁がみられます。上面を水平に整えています。
弓建嶺は浅利与一の伝承が伝わり、石柱や祠が残っています。頂部に郭の削平はありませんが、頂部をとりまくように数本の竪堀が施されています。
三又尾山のあたりは遺構が集中します。また山頂には削平された郭があります。竪堀は盆地側(北)への施工が一般的ですが、この山の西側には両側に施工されたものもあります。
前回紹介した獅子頭南の鞍部の遺構がここに入ります。
右左口峠の西の尾根上に削平された遺構があります。写真は西から東をみています。右左口宿からの峠道はこの左側(北側)の真下を通って車道の通る峠道に出ます。しかし途中に岩壁を切り開いた崖路を通りますが、これは近代的なルートでしょう。崖路を通らずに尾根を真上に登って、この遺構の東と西の鞍部にでるルートがあり、おそらく、こちらが古いルートでしょう。
紹介したのは市川上野から右左口峠へのつづく尾根上塁址群の一部です。詳しくは9月28日(土)~12月8日(日)の企画展「駿河への峠道をおさえる中央市周辺の山城」展でお伝えします。
この7.5㎞に渡る遺構群については、1583年の賤ケ岳の合戦の前年の本能寺の変直後に、甲斐・信濃などの領有をめぐって起こった徳川氏と北条氏の天正壬午の変のおりのものではないかと考えています。甲斐では若神子城に入城した北条氏直と新府城で対峙した家康の攻防が有名です。この時北条氏は御坂城を築いて徳川勢を挟み撃ちにしようと考えます。御坂城の北条氏忠勢の動きについて、古府中の徳川の陣にいた水野勝成が記した「水野日向守覚書」にみられます。それによると、御坂城勢は挟み撃ちにする計略で「人数おし出し、甲斐国市川姥口と申す山に陣を取り」とあります。また「姥口の山へ引き取り備えを立て」ともあります。この記述は市川から右左口峠の尾根上の塁趾群や右左口周辺の砦群と関係する可能性があるのではないでしょうか。