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浅利与一

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豊富地区ゆかりの人物・浅利与一に関する記事です。
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#平家物語

与一ミニ企画展⑥『平家物語』成立と権力者②読み本と徳川氏

今回は『平家物語』のうち、読み本の成立と当時の権力との関係を考えます。 『平家物語』延慶本の写本活動 『平家物語』で最も古い読み本の一つが延慶本(えんぎょうぼん)です。この本は延慶年間(1308~1311年)に書写されたものが紀州根来寺に伝わり、応永26~27年頃(1419~1420)に組織的に写本が作られました。その時の写本が現代に伝わっており、奥書から上記の経緯が判明しています。 本文は、私たちが知る『平家物語』覚一本とは大きく異なります。音読を前提としていないので、

与一ミニ企画展⑤琵琶法師とは

『平家物語』といえば琵琶法師の存在が思い浮かびます。ではその琵琶法師は、いったいいつ頃現れて、社会の中でどのような役割を果たしたのでしょうか。 琵琶法師の登場  琵琶はもともと中国の楽器で、朝廷に伝わり雅楽に取り入れられました。それとは別に、唐の時代(618~907年)から盲目の人が琵琶を弾く習俗があったといいます(『続高僧伝』『西湖遊覧志余』)。その習俗は西国に伝わって平家琵琶の源流になったと考えられています。  平安時代になると、記録にも琵琶法師が登場します。『小右記

与一ミニ企画展④『平家物語』成立と権力者①語り本と足利氏

『平家物語』の読み本・語り本それぞれの成立には、当時の政治権力も深くかかわっていたと言われています。 まずは「語り本」のほう、代表的な覚一本の成立と室町将軍家の関係を見てゆきましょう。 『太平記』に見える琵琶法師・明石覚一 現代において、もっとも有名な『平家物語』は、語り本の覚一本です。これは琵琶法師の明石覚一検校の語りをベースにしています。 明石覚一は琵琶法師で、南北朝時代に既に「平家」を語っていたことが分かっています。『師守記』暦応3(1340)年2月4日条に「覚一の

与一ミニ企画展③『平家物語』の読み本・語り本とは

『平家物語』は有名ですが、いつ頃成立した物語なのか、あまり知られていないのではないでしょうか。源平合戦のことを描いているから、何となく鎌倉時代にできたと思いがちですが、現在のような形になったのはもうすこし後の事です。 『平家物語』成立前夜:説話としての平家伝説 一昔前の教科書には、『平家物語』の作者は「信濃前司行長」だと書いてありました。根拠は、鎌倉時代の随筆『徒然草』第226段です。 これによると、行長は博識だと有名で、ある日『白氏文集』の中の「新楽府」の部分を天皇の

与一ミニ企画展②浅利与一の紹介

今回は、中央市ゆかりの武将・浅利与一のプロフィールを簡単に紹介します。 彼については以前「大福寺周辺をたずねる1「浅利氏と大福寺」」でも取り上げました。そちらも併せてご参照ください。 浅利与一の履歴書 実名:遠義・長義・義遠・義成が伝わる(当時、名前を変えることはよくある事でした) 生年:久安5(1149)年 出生地:甲斐国か 父親:逸見清光(十一男) 母親:不明 兄:逸見太郎光長・武田太郎信義・加賀美二郎遠光・安田三郎義定(叔父とも言われている)・平井四郎清隆

与一ミニ企画展①『平家物語』からみる源平合戦の流れ

今回は、「三人の与一」(佐奈田与一・那須与一・浅利与一)の活躍を中心に、『平家物語』を振り返りたいと思います。 佐奈田与一だけ、一般的に流通している覚一本『平家物語』に登場していないので、一部延慶本の内容も入っています。 こちらが「三人の与一」の活躍を中心にした年表です。 源平の命運 『平家物語』が始まるまでの流れを概説すると、そもそも源氏も平家も元々は臣籍降下した皇族でした。その中から武芸が得意な一族が出て来て、ガードマン的立ち位置で朝廷に仕えるようになりました。その

ミニ企画展「浅利与一の「物語」」実施します

中央市豊富郷土資料館です。 今回は、ミニ企画展「浅利与一の「物語」」実施のお知らせです。 突然ですが、浅利与一という武将を御存知でしょうか。 那須与一は知っているが浅利は知らない、という方がほとんどではないでしょうか。 浅利与一は、那須与一と同時代に生きた武将です。彼は甲斐源氏・武田信義の弟で、現在の中央市浅利付近を本拠地としていました。彼も那須与一と同様に弓の名人で、『平家物語』にも登場します。実際、江戸時代の庶民文芸では、「弓の名手といえば那須与一と浅利与一」という位